衝撃の連続!宮沢賢治の超面白い3エピソード



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明日のブラタモリにて
岩手県の花巻市を中心に調査します。

テーマの一つになんと、
童話作家で有名な宮沢賢治さん
取り上げるのです。

僕にとって宮沢賢治さんといえば3つ。

一つ目は小学校のころにやった演劇で、
宮沢賢治さんのよだかの星
を演じたこと。

二つ目は中学校の英語の授業で、
注文の多い料理店
を習ったこと。

まさか怖い話につながるとは……

三つめは国語の教科書でオツベルと象
ピストルの無力なことといったら……

宮沢賢治さんってまじめな印象しかないので、

「え、こんな面白いところがあったの?」

ブラタモリでも取り上げなさそうな、
面白いエピソードを調べてみました。

※上記画像の建物は宮沢賢治記念館。岩手県花巻市にあります。

 

宮沢賢治の生い立ちから死まで

宮沢賢治

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宮沢賢治さんは1896年に生まれ、1933年に亡くなりました。
1896年に関する大きな事件は第一回オリンピックです。

同じく1933年はヒトラーがドイツの首相に就任し、
ルーズベルト(米国)が大統領に就任し、ニューディール(恐慌対策)を行いました。

賢治さんが生まれた後、すぐ大地震が起きました。
お父さんは仕事で出張中におき、お母さんは賢治さんを抱きかかえ、
ひたすら念仏を唱えていたとのこと。

次にお父さんの姉が仏教に関する説法を唱えており、
賢治さんも隣で声に出していました。

子供は少しでも大人になりたいため、良い悪い関係なくマネする傾向がありますね。

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賢治さんが小学生になったとき、一つの出会いをもたらします。
八木先生が賢治さんらの前でたくさんの童話を読み聞かせたのです。

※上記画像にある童話も賢治さんが影響を受けたひとつ。

たくさんの童話に少年だった賢治さんは衝撃を受け、
後に童話作家となって八木先生に出会ったとき、厚くお礼を述べました。

「先生の読み聞かせのおかげで運命が大きく変わりました。
私の作品の根幹は八木先生が読んでくださった童話です」

賢治さんは童話だけでなく鉱石や昆虫採集など、
理系学者の兆しをみせる一方、仏教関係の講習会にも参加しておりました。

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やがて中学校で将来に悲観して趣味(様々な採集)に走りながら、
盛岡高等農林学校(現在の岩手大学農学部、上記画像)に入学し、
研究者として活動する一方……

仏教関連で知り合った仲間たちとともに同人誌を出します
宮沢賢治さんにとって作家デビューですね。

学校を卒業した後は家事手伝いを行い、
1921年に父親と大喧嘩の末、一人で上京しました。

半年後に妹が危篤状態に陥り帰郷します。

※翌年妹は結核でこの世を去る。

教師として働く一方で作品も出し、はじめは自費出版で「春と修羅」を出しました。

1926年に学校を退職し農家に転職した後、
東北砕石工場技師になり過労から病を患ってしまうのです。

その後急性肺炎を患いこの世を去りました(享年37歳)。

 

宮沢賢治の面白いエピソード1:懐が広いボンボン

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次からは宮沢賢治さんのここが面白いという部分を調べました。

生い立ちを調べているうえで驚いた部分として、
宮沢賢治さんは貧しい農家として一生を終えたのでなく、
むしろ裕福な生活を送っていたことです。

例えば宮沢賢治さん、当時の最先端蓄音機を持ち、
よりいい音質で音楽を鑑賞するため、針を金属から竹に切り替えたのです。

後に竹ですら満足がいかず、自作で針を作ったとのこと。

またVIP客といわれるほど同じ店でレコードを買いまくったおかげで、
イギリスに本社を置くレコード会社から表彰を受けたのです。

宮沢賢治さんはこだわりを持った職人であり、
一つの物事(特に趣味)にとことんのめりこむ体質ですね。

血液型はわかっておりませんが、僕はO型だと思っています。
根拠としてはこちらの芸人に行動や思考が似ているからです。

 

面白いエピソード2:友達が辛そうなので……

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小学校時代、賢治さんの友達が悪いことをして、廊下に立たされておりました。

友達は両手に水の入ったやかんをもっていた。
賢治さんはやかんに入った水をすべて飲んでしまったのです。

友達想いからやかんに入った水を飲んでしまうところに、
人助けの精神が現れておりますね。大きな人助けの裏に仏教があります。

大人になってから賢治さんは家族に対し、
法華経への改宗(家族は浄土真宗)を迫り父親と対立し、
周りの人間関係に大きな影響を与えるのです。

資料によりますと、賢治さんは浄土真宗にはない利他の姿勢に心を打たれたとのこと。

利他(自分より他人の利益を優先する生き方)思想から、
賢治さんにとっては友達の負担を減らすことがいい
と考えた。

見事につながっていますね。

 

面白エピソード3:自分の命を予期していた

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宮沢賢治さんが高等学校の学生(現:大学生)のころ、
肋膜炎で医師から診断を受けた後、友達に言いました。

「自分の命は15年くらいだ」

実際15年後に肺炎でお亡くなりになったのです。

仮に宮沢さんが「まあ、後50年は生きていられるだろう」
思っていたら、もっと生きていたのかもしれません

15年しか生きられないと自己暗示をかけていた部分も、
会ったのではないでしょうか。考えすぎでしょうか。

宮沢賢治さんは二度の結婚チャンスがありました。
はじめは学生時代、お世話になった病院でナースに惚れたのですが、
若さを理由に両親が認めませんでした。

二度目は上京してある女性とお見合いになった際、
女性は結婚に乗り気だったのですが、賢治さんはなかった。

もし宮沢さんが結婚し、お子さんが産まれていたら……
作品にも思想の上で変化が出た
と思っています。

子供ができると考え方ってごろりと変わります。
うまく説明できないのですが、とにかく変わるのです。

作家でなく「人間」としてみると、面白いエピソードを持っていますね。